「 mekemekeの記事 」 一覧
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自ら進んで倹約
上杉鷹山は、自分から進んで倹約をしていました。 江戸での一年の生活費をそれまでの七分の一である209両ほどとして、 衣服や食事、本などをまかなったそうです。 上杉鷹山の米沢での生活費は、さらに少ないも ...
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お金の出入りをはっきりと
明和8年(1771年)には、「御領地高並御続道一円御元払帳」という一年間の米沢藩の収入、支出、借金などを詳しく記載した帳簿が作られました。 このような帳簿は、米沢藩内ではじめて作られたと考えられていま ...
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多くの意見に耳を貸す
上杉鷹山は、寛政の改革でより多くの人々の意見を聞くことを大事にしています。 寛政3年(1791年)、追手門前、政治所脇に「上書箱」という意見を投げ入れるための箱が設置され、所属を明確にすれば、藩士だけ ...
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田畑をひらく
米沢藩の財政を安定させるためには、農業生産を増やし、安定させることが重要と考え、上杉鷹山は、農民だけでなく、藩士に対しても田畑の開発を促しました。 上杉鷹山は、安永2年から翌年にかけ、藩士たちに田畑の ...
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飢えをしのぐ
米沢藩の財政は、飢饉・凶作などが続きかなり苦しいものでした。 安永5年には、飢饉・凶作に備える蔵を各村に立て、毎年一人一升ずつの籾(もみ)を蓄えさせました。 何をさしおいても領民が生き延びる策をとって ...
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上杉鷹山: 精神の改革
上杉鷹山は、「民の父母」となることを自分に言い聞かせ、藩政改革のに必要な場合には、例え重臣であっても処罰する、という厳しい態度で自分にも他人にも律してきました。
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しきたりにはこだわりません
江戸時代は、昔からのしきたりが数多く残されていましたが、上杉鷹山は大胆にもしきたりの一部を見直しました。 それは藩主として初めて米沢に入るときからはじまり、改革への意気込みを周囲に示したと言われていま ...
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改革への誓い
上杉鷹山は、藩主となった明和4年に、米沢林泉寺境内にある、上杉家の祖新春日社に、「民の父母」の心構えを第一に、質素倹約を忘れない、など、藩主個人としての行動を誓ったのです。 さらに、翌年には置賜郡の守 ...
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米沢藩を飢餓から救った飯粮集
上杉鷹山が藩主の時代には、苦しい財政に加え、あいつぐ天災により農作物がとれず、食糧不足による飢えで、尊い命が数多くなくなりました。この飢饉に対して人々を救うため、野草などを食料にする知恵をまとめたのが ...